Lawless Area

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ロダン


早いものでもう今年も半分が過ぎ去ろうとしている昨今、皆様いかがお過ごしだろうか。

私はというと、ここ数日どこからか貰ってきた風邪の菌にまんまとやられ、実に約15年ぶりとなる夢の39度という記録を達成していた。

しかも、何故か39度近くという状況が3日続き、ようやく下がってきたかというところで喉がやられてしまい、唾も飲み込めないほどの激痛に晒される始末。普通順番逆じゃねーかな。

物も満足に食べられず、かつ、ずっと外に出ていないので髭も中東帰りみたいになっており、完全に無人島に漂流した人みたいになっている。



でだ、ここまで酷いともう寝る以外の選択肢がないわけで、かといってそんな1日中寝ていられるわけもないため、余計なことをあれこれ考えてしまうのは仕方の無いことである。

ということで、ここ数日で色々と考えたわけだが、病気だという事もあり人恋しくなっていたのだろう、その中でも特によく覚えているのは、


「人はひとりでは生きられない」


という事についてであろうか。



人生において1度くらいは目にするこのフレーズだが、私も昔は「はっ、下らない、1人でも生きていけるだろ」というなんとも粋がった考え方をしていた。

確かに、文明が発達した現代においては1人でも生きてはいけるだろう。

しかし、私はこう思ったのだ。この「ひとり」は「独り」という事なのではないかと。



人間というのは多かれ少なかれ他者と関わって生きており、そうした関係性がその人の「地位」を形成している。

家族でいえば「親」や「子」、「長男」や「次女」、学校でいえば「クラス委員」や「仲良しグループのリーダー」、会社でいえば「新人」や「プロジェクトチームのリーダー」、「役員」など様々である。

そして、こういったある意味で「縛り」のようなものがあるからこそ、自分というものに存在意義を見出していたり、生きる動機付けとなったりしているのではないだろうか。



これがもし、どこにも属せず、誰からも認識されておらず、一切の地位を持たず、本当の意味での「独り」だったらどうだろうか。

果たしてそれでも「生きる」という事についてモチベーションを維持し続けられるだろうか、私は恐らく無理だと思う。

別に自分がメンヘラだとか、構ってちゃんだとかそういうアピールをしたいわけではなく、あくまで一般的にあるだろうという前提で言うが、誰でも一度くらいは「死のうかな」と思ったことがあろう。

そして、そう思った時に引き返せたのは、深いつながりを持つ「他者」を意識したからではないか。少なくとも私はそうだ。



もちろん、「他者」との関わりを一切排斥して、たった「独り」でも生きていける人はいるだろう。

ただ、そういう人は恐らく何かしらの目標を掲げ、それに向かって突き進んでいると思われるが、その目標が達成できてしまった時、周りにそれを共有できる人が居ない「独り」という状態でも果たして平気なのだろうか。

また無理に次の目標を設定でもしない限りは、恐らく生きていくのは困難な気がしてならないし、いずれそれも限界がくるはずである。やはり「他者」との関係というのは重要なのだ。



つまり、私が何を言いたいのかというと、自分を気にかけてくれる人というのは、本当にありがたい存在だという事を、もう少し皆自覚すべきという事である。

自分が何気なしに生きていられるのは、誰かしら「他者」との関わりを無意識に感じ取っているからであり、そういう「他者」はとてもありがたい。

にもかかわらず、最近見ていて思うのは、人の好意に対しての対応が雑な人が多い気がするのだ。



何かをやってもらったり、気にかけてもらったら必ず「ありがとう」と感謝の気持ちを表すべきだし、同じように何かあったときはその人にも同等か、それ以上の対応をすべきだ。

「誠意」には「誠意」で返すという、良く考えれば当たり前の事ができていない人が増えてきている気がしてならない。

自分に対し何かしらの好意を向けてもらえるというのは、実はとても贅沢なことだという意識を持たず、なおざりに対応してばかりいると、いずれ痛い目をみる事になるだろう。

うんうん、そうだそうだ、私も気をつけよう、と熱にうなされながら思っていた次第である。

うむ、こんな道徳的なこと、熱でもなけりゃ絶対に考えなかっただろう。