イジメ、かっこ悪い
最近ネットで小学6年生の女の子が、いじめを苦にして自殺したというニュース関連の記事をよく見る。
こうしたいじめ関係の記事を読んだ人の間で絶対に議論がなされるのが、「どうしたら無くなるのか」ということと、「どちらに原因があるのか」ということの2つ。
そうした議論を読んで思うことがあったので、前にも当ブログで言及したのだが、再びこのいじめについて述べたいと思う。いわゆる一つの自己満足である。
■どうしたら無くなるのか
この問いは無くなることを前提としているが、そもそも私は無くならないと思っている。
日本人特有の性格なのか、人間の本能なのかはわからないが、KYという言葉が流行ったように、日本社会には何故か周りと違うことを良しとしないという風潮がある。
特にこの風潮は他者の価値観を受け入れられず、自分が絶対であるという考えを持つ少年期において顕著に現れ、しかも人間的に未熟なので、違うということだけで排斥しようとすることにそれほど罪悪感を覚えない。
また、人間は生きるうえで必ず他者と自分とを比較して生きており、そこには常に自分が上でありたいという考えがある。
その点いじめはもっとも容易に人の上に立つことができ、自分がその人より上だという事実を確認することで優越感に浸ることができる。
この感覚はとても気持ちがよく、何より楽しいのだ。
更に、いじめを集団でやることで加害者側に仲間意識が芽生え、自分は一人じゃないという安心感を得られるというのもある。
もちろん皆が皆あてはまるわけではないとは思うが、以上のことからいじめは無くならないのだと私は考えている。
というかそもそも会社や地域などにおいて、良い年した大人でさえいじめを行うのだから、もうこれは本能的なものと言ってもいいような気もする。
にもかかわらず、法務省はいじめのなくし方としてこのような漫画をサイトに掲載している。
もしこれを本気で言っているのだとしたら、余りにもお粗末であると言わざるを得ない。
勉強ができるのは結構なことだが、もう少し現実というものを理解していただきたい。
民主党さんには是非仕分けの対象にしてもらいたいものである。
■どちらに原因があるのか(どちらが悪いのか)
これは以前も述べたことなのだが、私は9:1で加害者に問題があると思っている。
やはりそもそも加害者がいじめなければ、この問題は起きようが無いわけで、その行為を肯定する材料を私は持ち合わせていない。
人間やはり自分がやられて嫌なことは、人にすべきではないのだ。
しかし、決して全部が全部加害者に問題があるとも私は思っていない。
やはりなにかしらのきっかけが無ければ、いじめという問題は発生しないはずである。
それは例えば、酷い裏切りをしたとか、いやらしい自慢話をしたとか、高圧的な態度を取ったといった、モラルに反する行為が原因となるという理由から、暗い、声が小さい、身なりが汚い、コミュニケーションがちゃんと取れない、といった理不尽な理由まであるだろう。
もちろん後者に関しては理由になってないと思うのだが、この社会が周りと同じ(普通)であることを要求しているのだから仕方が無いのだ。
以上いじめの問題について、偉そうに講釈をたれてきたわけだが、ではどうすれば良いのかを述べないと余りにも救いの無い文章となってしまう。
ということで、以前も対処法については言及してはいるのだが、一応このことに関しても述べていこうと思う。
が、予想していた以上に長くなってしまったため、本日はきりの良いここまでとして、以降は次回に持ち越すこととする。